03年11月、常熟路と華山路の交差點(diǎn)を西に少し歩いて、さらに路地を50メートルほど入ったところに、隠れ家のようなプチホテルがひっそりとオープンした。「OLD?。龋希眨樱拧?。その名の通り、1930年代に建てられた洋館をリノベーションしたものだ。
このあたりには、煌びやかなロビーを持つ外資系、団體観光客やビジネスマンで賑わう地場(chǎng)系のホテルが四つもにょきにょきと建っている。対比するかのように慎ましやかに存在するこのホテル、言われなければ、存在にさえ気づかないだろう。
「ヨーロッパでは家庭的なホテルが人気でしょう。昔からの友人たちとの間で、上海にも、そんな靜かで家庭的なホテルを作りたいという話になったんです」と、ホテルの共同経営者で、支配人も務(wù)める楊永晨さん(42歳)。
物件は、こぢんまりした洋館を求めて探した。庭も広く、使いやすそうな物件もあったが、部屋數(shù)が多すぎると家庭的な雰囲気が壊れてしまうと、見(jiàn)送った。當(dāng)初は北京と上海の両都市でオープンさせようという計(jì)畫(huà)もあったが、SARSがあったり、昨今の不動(dòng)産バブルで家賃が高騰したり…。當(dāng)面は上海のみということで、オープンにこぎつけた。
建物は三階建てで、客室はシングルの四室を含めても12室しかない。家庭的な溫もりが感じられ、プライバシーも保たれる、ちょうど良い広さだ。
日本で學(xué)んだもてなしの心
楊さんと話すうちに、彼の口から日本語(yǔ)がこぼれ出した?!袱à茫俊工人激盲茖い亭毪?、日本へ留學(xué)、働いた経験があるという。
長(zhǎng)春生まれで、上海の名門(mén)?交通大學(xué)に進(jìn)學(xué)。卒業(yè)後は、故郷の鉄道局に配屬され、20代を過(guò)ごした。8年が過(guò)ぎた頃、局內(nèi)で試験があって、日本留學(xué)のチャンスをつかんだ。1992年から一年間、大阪で日本語(yǔ)を?qū)Wんだ。いったん帰國(guó)するが、再び2001年に渡日、東京と大阪で働いた。
飲食店やビリヤード場(chǎng)などを持つ會(huì)社で働くなかで、日本人の禮儀正しさやチームワークの良さ、サービス精神などを目にして驚き、自身もそれらを身に著けていった。日本滯在で得たことはさまざまあるが、「中國(guó)以外の世界へも目を向けることができるようになったこと」が一番の収穫のようだ。
しかし母親の急病で帰國(guó)を決斷、03年春中國(guó)へ戻った。そして、ホテル経営へ參加することになった。
老上海を追體験する香港?臺(tái)灣の客たち
特に、宣伝はしてこなかったが、オープニング?パーティーには力を入れた。蕓能人やマスコミ関係者など上海セレブたちを招待。新しもの好きの彼らの口を通して、クチコミで噂は靜かに広がっている。中國(guó)人蕓能人がお忍びで訪れることも少なくないとか。
宿泊客の中心は、米國(guó)やフランス、そして日本などの外國(guó)人だ。共同経営者は楊さんを含めて四人。みな、何らかの海外滯在経験を持ち、それぞれの外國(guó)人の友人?知人ネットワークが生かされている。
また、臺(tái)灣や香港、シンガポールから訪れる客もいる。彼らのなかには、子供時(shí)代に親から繰り返し聞かされた「老上?!工紊瞍蜃敷w験しようとやって來(lái)る人もいるそうだ。
「チェックアウトする時(shí)にお客様から『また、來(lái)るよ』と言ってもらう時(shí)が一番嬉しいですね」
日本に行ったばかりで日本語(yǔ)がまだ分からなかった頃、人と交流することができず、心細(xì)い思いをした。だからこそ、見(jiàn)知らぬ上海を訪れる外國(guó)人や地方出身者には心細(xì)い思いをして欲しくない。目まぐるしく変化する上海のスピードに疲れた時(shí)には、心と體を癒せる場(chǎng)所にしたい――。そんな思いが、楊さんのもてなしの心につながっているようだ。
一階のバー&レストランは宿泊客以外にも開(kāi)放されていて、中華?イタリア料理などを供している。
「人民中國(guó)」より 2005年1月24日