日本軍が日の丸を掲げて四方八方から南京に迫っていたところ、南京の鐘鼓樓のもとでは西洋人のグループが赤十字の旗を立てていた。ドイツ人、アメリカ人、イギリス人、デンマーク人、それから中國人が金陵大學(xué)理事會(huì)のホールに集まり、國際通用の言葉を用いてみなの注視する人道、正義、公正、平和にかかわる問題を討議していた。彼らは次のようなニュースを読んだ。日本軍が上海を侵略占拠した際、ドイツ人のラオ神父は租界に難民區(qū)を設(shè)け、20萬人以上の戦禍で家を失った人々を救ったというのである。教授、醫(yī)者、牧師、商社の代表たちは、みなで難民保護(hù)の安全區(qū)を設(shè)立することを提案した。この人類の運(yùn)命にかかわる組織に「南京安全區(qū)國際委員會(huì)」という國境を超越した名稱を與えた。
15名の外國籍の人々で構(gòu)成された「南京安全區(qū)國際委員會(huì)」と17名で構(gòu)成された「國際紅まんじ會(huì)南京委員會(huì)」が結(jié)成され、難民保護(hù)の重責(zé)を擔(dān)うことになった。ドイツ人(シーメンス社の代理人)のジョン?H?D?ラーベ氏が國際委員會(huì)の委員長に選ばれ、米國聖公會(huì)のマギー牧師は「國際紅まんじ會(huì)南京委員會(huì)」の委員長となった。
當(dāng)時(shí)南京に滯在していた英國の新聞『マンチェスター?ガーディアン』中國特派員H?J?ティンパーリーは感きわまった調(diào)子で國際委員會(huì)を賞賛している。
「この20數(shù)名の勇気ある英雄にとっては、賞賛と栄譽(yù)がまことにふさわしい。特に彼らの活動(dòng)がしだいに周囲に知られるようになってから、このことはさらに明らかになった。彼らは本國政府役人の勧告、阻止をもかえりみず、南京にとどまることを選んだ。いまこの都會(huì)の何千何萬の人々が、中國人も外國人もあらゆる交通手段を求めて外へ逃げ出そうとしている。南京にとどまった人々は確かにそののちに起きた暴行を予想できたわけではなかったが、しかし、これらの人々はみな経験と學(xué)識(shí)に富む人たちである。彼らは自らの危険については完全に承知していたはずである。にもかかわらずこの人々は、南京が陥落した暁には、戦災(zāi)のただなかで苦しむ人々を救出しようという決意を変えなかったのである。彼らの勇気、熱意、平和と獻(xiàn)身の精神は必ずや人々の尊敬を集めることだろう」
14日、ジョージ?フィッチは車を運(yùn)転してロイター通信の記者二人を市外に送っていった。途中は死骸がごろごろころがっていた。車は前進(jìn)することができず、彼は何度も下りて死骸をどけなければならなかった。城門のあたりは死臭が鼻をついた。ノラ犬が目を血走らせながら、人の體にくらいついていた。
15日夜、日本軍は避難所の一つにおし入り、1300人以上を引き出した。帽子をかぶっている者は、みなとりあげて地面に投げ捨てられた。一人一人の腕は縄で縛り上げられ、百人一列になって、真っ暗な刑場(chǎng)へとひかれて行った。
16日、金陵大學(xué)のリッグス教授が國際委員會(huì)に報(bào)告してきた。昨晩、金陵大學(xué)にいた百人あまりの女性たちが連れ去られ強(qiáng)姦されたというのである。法學(xué)院と最高裁判所の避難民も全員が連行され、50名の警察も殺害された。リッグスが抗議したところ、逆に日本軍の將校から胸づきをくらった。
國際委員會(huì)はただちに緊急會(huì)議を開いた。外から機(jī)関銃の掃射音が伝わってきた。
17日、いたるところで略奪と殺人と強(qiáng)姦がくりひろげられた。この日に凌辱された女性は少なくとも1000人はいる。ある気の毒な女性などは37人に輪姦されたのである。
外國人居住者らも損害をこうむった。一人の將校がユニオンジャックの旗を出した英國領(lǐng)事館を包囲するよう命じて、日本軍は突入して部屋中をかきまわした。米國大使館の門衛(wèi)四人は軍用ピストルで撃ち殺された。イタリア領(lǐng)事館では日本兵によって一臺(tái)の車と三人の婦人が拉致され、ドイツ領(lǐng)事館は略奪にあった。
「チャイナネット」資料