山東省イ坊市(舊名:イ県)では60年前、歐米籍の居留者1500人が舊日本軍によって収容所に拘禁される事件があった。當(dāng)時(shí)拘禁された米國(guó)人、英國(guó)人、カナダ人やその家族が17日、イ坊市の収容所跡地前を訪問し、収容所解放60周年を祝賀した。
當(dāng)時(shí)、中國(guó)各地から強(qiáng)制的に収容された歐米人のうち、まだ10歳前後の子供が多數(shù)含まれていたという。同日収容所跡地を訪れた元収容者らは、すでに70歳前後の高齢だ。見慣れた建物を目に、こらえ切れずに抱き合って泣く元収容者の姿も見られた。
當(dāng)時(shí)のイ県収容所は現(xiàn)在、イ坊市第2中學(xué)とイ坊人民醫(yī)院として使われている。太平洋戦爭(zhēng)の勃発後、米國(guó)政府が日系米國(guó)人の米國(guó)內(nèi)での活動(dòng)を制限したことに対する報(bào)復(fù)として、日本は當(dāng)時(shí)のイ県楽道院に収容所を建設(shè)し、外國(guó)人2008人を拘禁した。収容者は主に歐米籍の居留者で、うち327人は子供だった。後に、捕虜交換により500人が釈放された。
現(xiàn)地の農(nóng)民や抗日部隊(duì)は収容所に拘禁された人々に同情を寄せ、収容者の暮らしを助けた。収容所は、1945年8月17日に解放された。
戦爭(zhēng)と苦難を體験した元収容者らは、見覚えのあるレンガや瓦の一つ一つ、幼少時(shí)の生活を記録した貴重な寫真の一枚一枚を目にする度に、萬感迫る様子だった。元収容者の一行には、今や政界やビジネス界で活躍する著名人も含まれる。イ県の収容所に生まれたある女性は、出生地への思いと教育への関心から、地元のイ坊第2中學(xué)に奨學(xué)金基金を設(shè)けた。米ニュージャージー州議員を務(wù)めるマリー?プリヴィットさんは、9歳の時(shí)に兄、姉、弟とともに同収容所に拘禁された。プリヴィットさんは、「かつて収容者に拘禁された私たちは今日、自らの體験から皆さんに伝えたい。戦爭(zhēng)?憎しみ?暴力は、決して平和につながる道ではない」と強(qiáng)く訴えた。
(イ県とイ坊市のイはさんずいに「維」)
「人民網(wǎng)日本語版」2005年8月18日