お茶を飲む習(xí)慣は中國(guó)では長(zhǎng)い歴史があり、昔の文人たちの集いには、お茶は絶対に欠かせないものであった。お茶を楽しみながら、詩(shī)や文章などについて語りあうことは、この上なく風(fēng)雅なことだと見なされていたからである。漢代の「華陽國(guó)志」、司馬相如の「凡將篇」などの古書には、周の武王が商の紂王を討った頃には、お茶はすでに獻(xiàn)上品とみなされていたことや、前漢のお茶の売買?入れ方?お茶の飲み方などについて記されている?!溉斯滩豢梢蝗諢o茶飲(人間は一日さえお茶を欠かすことができない)」と宋代の詩(shī)人?政治家の王安石がかつて語ったように、お茶は古代の人々の暮らしの中で、非常に重要視されていた。
唐代までは、食器は茶器としても使われ、お茶専用の器具はまだ存在しなかった。お茶を飲む習(xí)慣が一般化するにつれ、専用の器具も現(xiàn)れ、唐代の末期になると、お茶を飲むのに最も適した茶器――紫砂壷が姿を現(xiàn)し始めた。紫がかった赤色、手觸りのよさ、優(yōu)雅な形、渋味のあるつやという特徴を持つ紫砂壷は、だんだん人々に受け入れられるようになり、宋代になると、文人たちの愛用品となった。詩(shī)人歐陽修の詩(shī)の中に、「喜共紫甌吟且酌、羨君瀟灑有余情(ともに紫甌にて吟じかつ酌し、君の瀟灑で余情あることを羨う)」という一句があるが、「紫甌」は、つまり紫砂壷のことを指す。宋代の末期ないし明代になると、宜興の紫砂壷の製造工蕓は全盛期を迎え、全國(guó)の中心となった。その頃から數(shù)百年このかた、宜興はずっと紫砂壷工蕓のトレンドをリードする存在であった。
宜興は江蘇省、浙江省と安徽省が境の接するところにあり、太湖に臨んでいる。昔には、「陽羨」と呼ばれ、唐代にはすでにお茶の有名な産地として知られ、皇宮への獻(xiàn)上品となる銘茶の種類はたくさんあった。それがゆえに、宜興では、早くから丁山と蜀山の泥を材料にして紫砂壷を作るようになった。明代の周高起は「陽羨茗壷録」の中には、明代の嘉靖頃の工匠龔春は、紫砂壷工蕓の新時(shí)代を切り開いた人であるという記載がある。龔春の本名は「供春」で、もともとは召使いであった人で、金沙寺で主人の修業(yè)に付き添っていたとき、隙を見て金沙寺の僧に紫砂壷の作り方を教えてもらい、努力に努力を重ねて、紫砂壷工蕓の名匠となった。その作品は「供春壷」と呼ばれ、當(dāng)時(shí)は「供春の壷、金玉よりも貴し」という諺が口コミで広まったぐらいである。龔春がなくなってからも、宜興の紫砂壷工蕓が衰えることはなく、著名な匠が輩出し、紫砂壷の工蕓の革新も続いた。
清代の中頃、書?水墨畫?篆刻などに精通した陳鴻壽は、紫砂壷の製作工蕓にも打ち込み、書?絵畫?工蕓が融合しあった「曼生壷」を創(chuàng)作し、それは紫砂壷の製作工蕓史上のいま一つ一里塚であると、高く評(píng)価されている。その後、紫砂壷の製作工蕓に身を投じるとともに書畫に精通した蕓術(shù)家が続出し、紫砂壷工蕓に點(diǎn)睛の一筆を加え、その蕓術(shù)性をさらに引き上げていったのである。
「チャイナネット」2005年10月