1946年5月7日、中國(guó)による「葫蘆島在留日本人100萬(wàn)人大送還」が始まった。60年が過(guò)ぎたが、人道主義精神を示したこの美談は、さらに貴重さを増し、世界に対する道義的な啓発も、いよいよ深みを増している。(中國(guó)社會(huì)科學(xué)院日本研究所研究員 金煕徳)
■人道主義の記念碑 「大送還」
遼寧省西部に位置し、3方を海に囲まれた葫蘆島市は當(dāng)時(shí)、歴史に殘る美談――中國(guó)による在留日本人105萬(wàn)人余りの送還――の舞臺(tái)となった。
1945年8月15日、日本は敗戦と降伏を宣言した。日本ファシズムに共同戦勝した中國(guó)、米國(guó)、ソ連など連合國(guó)はまもなく、在留日本人の送還問(wèn)題を議題に上げた。9月29日、重慶で開かれた中米合同參謀會(huì)議は、「東北(満州)日本人送還計(jì)畫」を含む日本人送還計(jì)畫の迅速な策定を、中國(guó)陸軍総司令部に提案。10月25日、中米両國(guó)は在留日本人の送還に関する初會(huì)合を上海で開き、各作戦區(qū)域に在留するすべての日本人を帰國(guó)させること、中國(guó)作戦區(qū)域の在留日本人はまず山海関以西、次に山海関以東の順に送還し、陸上輸送は中國(guó)が擔(dān)い、海上輸送は米軍が擔(dān)うことを決定した。1946年1月10日、中國(guó)共産黨の周恩來(lái)代表、國(guó)民黨の張群代表、米國(guó)のマーシャル代表による北平(北京)軍事調(diào)停執(zhí)行部3人委員會(huì)を設(shè)置して、東北地方の在留日本人送還の全體計(jì)畫を策定し、実際の送還事業(yè)は國(guó)民黨東北野戦司令部と東北民主連軍が実施すること、民主連軍とソ連軍が直接送還する安東と大連の在留日本人を除く、東北地方の殘りの在留日本人はすべて葫蘆島から送還することを決定した。
1946年5月7日、在留日本人2489人を載せた汽船2隻が葫蘆島港を離れ、「葫蘆島在留日本人100萬(wàn)人大送還」が正式にスタートした。同年12月31日までに、葫蘆島経由での日本人送還は計(jì)158回、総數(shù)101萬(wàn)7549人(うち捕虜1萬(wàn)6607人)に達(dá)した。1947年と1948年には、さらに國(guó)民黨勢(shì)力圏で使用されていた3萬(wàn)3498人の日本人が送還された。こうして葫蘆島から送還された在留日本人は、3年間で105萬(wàn)1047人を數(shù)えた。
大送還は、中華民族の懐の広さと人道主義精神を體現(xiàn)している。日本の軍國(guó)主義が発動(dòng)した侵略戦爭(zhēng)は、この世のものとも思われぬ悲慘な災(zāi)難を中華民族にもたらした。しかし中國(guó)人は抗日戦爭(zhēng)の勝利後、海のごとき寛容さで在留日本人や俘虜を扱い、思いやりある人道精神で、彼らの帰國(guó)を助けた。
中國(guó)人は大送還のために、戦後の極度に困難な條件の中、莫大なヒト?モノ?カネを投入した。運(yùn)行した列車だけで1萬(wàn)3441両を數(shù)えたほか、葫蘆島に日本人専門の病院を設(shè)立し、さらに日本語(yǔ)の新聞まで発行した。
現(xiàn)代にふれ過(guò)去に思いを馳せると、大送還は歴史にもまれな美談であり、世界に誇る人道主義の記念碑である。
「人民網(wǎng)日本語(yǔ)版」2006年6月23日