■日本の棄民も軍國主義の被害者
大送還の過程は、日本軍國主義の発動した中國侵略戦爭が中國人に深刻な災(zāi)難をもたらしたのみならず、同時に日本人にも慘禍をもたらしたことを証明している。
1905年の日露戦爭の後、日本は中國東北地方への移住政策を開始した。1915年には「愛川村」が設(shè)置され、日本による中國東北地方への「開拓団」の大規(guī)模な派遣、計畫的な移民侵略の序幕を開いた。1931年の「9?18事変(満州事変)」の後、日本は1937年から20年以內(nèi)に100萬世帯?500萬人を移住させるという大規(guī)模な計畫を定めた。1945年までに「開拓団」の総數(shù)は860以上、移住者は10萬6千世帯?31萬8千人に上った。152萬1千ヘクタールに及ぶ中國の土地が奪われ、500萬人の中國人農(nóng)民が土地を失い、流浪を余儀なくされるか、あるいは日本が設(shè)置した1萬2千余りの「集団部落」に入れられた。日本が敗戦と降伏を宣言した1945年8月15日時點で、東北地方にいた日本人は145萬人に上る。
日本の「最高戦爭指導(dǎo)會議」は降伏前に、中國に在留する日本人を現(xiàn)地に定住させる政策を決定した。関東軍司令官は1945年8月19日、この政策に基づいて、「帝國の復(fù)興のため、より多くの日本人を中國大陸に殘留させる」という復(fù)興計畫を定めた。日本政府はこれらの日本人を、いつの日か中國に捲土重來する際の地下先遣軍にしようと企図し、「棄民」政策を取ったのである。
「棄民」政策により、中國東北地方に殘された日本人は窮地に追い込まれ、敗戦後の引き上げの途中で自殺?餓死?病死した日本人は17萬4022人、うち「開拓民」の死者は7萬8500人に上った。運よく生きのびた日本人のほとんどは、哈爾濱(ハルビン)、長春、瀋陽など大中都市の難民収容所に集まり、切々と帰國を待ちわびた。
中國東北地方に殘された多數(shù)の日本人開拓民は當(dāng)初、牡丹江を経由して帰國するつもりだったが、ソ連赤軍に包囲されたため、避難路を依蘭へ変え、哈爾濱経由で大連から船で帰國することにした。だがすでに哈爾濱もソ連赤軍に占領(lǐng)されており、集結(jié)地は近くの方正県となった。日本人移住者が窮地に陥った時、善良な中國人らは過去の遺恨を水に流し、救いの手を差し伸べた。中國人はこれらの日本棄民を?qū)埲荬擞訾贰⑸嬲撙蛩瓦€しただけでなく、帰國する力のない弱者を養(yǎng)った。こうして養(yǎng)われた子どもたちは「中國殘留日本人孤児」という特別なグループになった。
比べてみると、天と地の差だ。日本軍國主義は開拓民を中國侵略の先鋒に仕立て上げ、敗戦すると情け容赦なく棄て去った。一方、中國の人民は広い心と人道主義精神で敵國の棄民を救い、大送還により彼らを無事に故郷へと帰らせたのである。
「人民網(wǎng)日本語版」2006年6月23日