遼寧省西部に位置する中國(guó)沿海部のごく普通の都市――葫蘆島市は、60年前に中國(guó)が在留日本人100萬(wàn)人を送還したという、今では知る人もまれな歴史の証人である。(于青)
當(dāng)時(shí)、100萬(wàn)人におよぶ日本人が、日本の侵略拡張政策を受けて中國(guó)東北地方に渡ってきていた。日本による中國(guó)東北地方への計(jì)畫(huà)的な移民侵略政策の歴史は、1905年の日露戦爭(zhēng)後にまで遡る。初めは「開(kāi)拓団」という名の農(nóng)業(yè)移民、次に植民政策の推進(jìn)のため、工業(yè)移民、商業(yè)移民、技術(shù)移民、政治移民、文化移民など、あらゆる分野の移民が続いた。1945年までに中國(guó)東北地方に移住した日本の農(nóng)民は30萬(wàn)人に達(dá)した。當(dāng)時(shí)、日本政府は、中國(guó)東北地方に500萬(wàn)人を移住させ、総人口の10分の1を占める計(jì)畫(huà)を立てていたという。
中國(guó)に移住したこうした日本人もまた、日本の侵略拡張政策の被害者である。1945年8月、日本の関東軍司令官は「最高戦爭(zhēng)指導(dǎo)會(huì)議」の政策に基づき、「帝國(guó)の復(fù)興のため、より多くの日本人を中國(guó)大陸に殘留させる」という、いわゆる復(fù)興計(jì)畫(huà)を定めた。日本政府は、これら在留日本人を復(fù)興計(jì)畫(huà)のための潛伏者にしようと企図し、在留日本人への「棄民」政策を取ったのだ。これにより、100萬(wàn)を數(shù)える日本人が、中國(guó)東北地方に捨てられた難民となり、きわめて苦難に満ちた境遇に陥った。日本人難民問(wèn)題の解決は戦後の中國(guó)が抱える重要な課題となった。
在留日本人100萬(wàn)人の送還は、中華民族の気高い人道主義精神を示している。1945年8月15日に日本が降伏を宣言し、中國(guó)は多方面の復(fù)興を要していた。中國(guó)は非常に困難な條件にありながら、在留日本人帰國(guó)問(wèn)題の解決に著手した。1946年5月7日、日本人を満載した2隻の汽船が葫蘆島港を離れ、「葫蘆島在留日本人100萬(wàn)人大送還」が本格的に始まった。その後3年間、葫蘆島から送還された在留日本人は、総計(jì)105萬(wàn)人を超える。中國(guó)はこのために、大量の資金?物資?労力を投じた。戦爭(zhēng)の被害國(guó)である中國(guó)の人民は、広く深い懐を見(jiàn)せ、気高い人道主義精神を示したのである。
「葫蘆島在留日本人100萬(wàn)人大送還」60周年を記念するのは、「前事を忘れず、後事の師とする」ためであり、「歴史を鑑(かがみ)として、未來(lái)へ向かう」ためであり、中日両國(guó)民の相互理解と相互信頼を促し、中日関係を改善?発展させるためだ。60年前の「在留日本人100萬(wàn)人大送還」の舞臺(tái)となった葫蘆島は、「中日友好は得がたく、雙方が共に一層大切にする必要がある」ことを人々に物語(yǔ)っている。
「人民網(wǎng)日本語(yǔ)版」2006年6月27日