峨嵋山の四大奇観の三、「峨嵋の寶光」は珍しさを永遠(yuǎn)に保つ
峨嵋の寶光は、仏光とも言われる。お経の中で、それは釈迦牟尼の眉間から放射される光であると言われている。峨眉山の上にこのような自然奇観が現(xiàn)れるのは、仏教が山中に伝わった歴史と密接な関係がある。西暦63年に発見されてから、1900余年の長い歴史を持つだけでなく、世界の奇観として國內(nèi)外でもよく知られている。
峨嵋の寶光に類似した自然現(xiàn)象は、國內(nèi)外ですでに何回も多くの所で現(xiàn)れている。國內(nèi)には山西省五臺山の仏光寺、江蘇省南京市の鐘山、北極閣、浙江省の霊巖寺、安徽省の黃山、潛山、江西省の廬山、山東省の泰山、雲(yún)南省の鶏足山、チベット自治區(qū)のラサ渓谷、四川省の大小瓦屋山などがある。國外には南アフリカのパンバマス山、アメリカのアリゾナ?グランドキャニオン、スイスのノースルゲン山、ウクライナのミア半島、黒海とアゾフ海の間のロマンクシュ山、ドイツのハツ山のブロケン峰などがある。しかし、これらのところの「寶光」については、あるものは偶然に現(xiàn)れるだけであり、あるものはかつて何回も現(xiàn)れたが、とっくに消えてしまっており、あるものは景観は保存されているが、目にすることは難しい。峨嵋の寶光だけは、峨眉山観光スポットの範(fàn)囲內(nèi)において、天門石、接引殿、雷洞坪、霊巖寺などで何回も現(xiàn)れたことがある。世界の奇観であり、珍しさは永遠(yuǎn)に保たれることであろう。
峨嵋の寶光は七つの色彩の光の環(huán)である。その変化の珍しさは、予想外のものである。北肩に入って立つと、人の影が環(huán)の中にあり、人が動(dòng)くと影も動(dòng)き、體と影はおのずと見える。そのすばらしさは、言葉では形容できないほどで、自らその場に臨んで目にすれば、その不思議さを自ら知ることができる。
ここ100年來、峨嵋の寶光という自然現(xiàn)象は、世界の學(xué)界で重視され、研究されるようになっている。中國の魏福平教授らが長年観察した結(jié)果によると、寶光という自然現(xiàn)象は日光が伝播する中で、障害物の縁あるいは隙間を通して展開される現(xiàn)象であり、つまり展開の作用の中で現(xiàn)れたものである。雲(yún)の群れがかなり厚く、日光が雲(yún)の群れを通り抜けると、雲(yún)の群れの深部の水滴あるいは氷粒に反射されることになる。このような反射が更に雲(yún)霧の表面を橫切る際に、一部の光が本來の放射方向からそれ、そのそれた角度と氷粒のついた點(diǎn)の直徑が反比例となり、いろいろな色と光の波長と正比例になる。そこで、異なる波長の単色光がそれぞれ次第に拡散していって、色彩の光の環(huán)を形成するのである。なぜ環(huán)狀の光の反応があらわれるのか。ある人は光の錐面にのみある?yún)g色光こそが肉眼で見えるものだと言っている。このような光の錐の視角は、おおざっぱな計(jì)算によると約9度前後であり、虹の視角が約84度に達(dá)するようなものではない。同時(shí)に光が屈折する時(shí)に、光はさらに短いとそのそれる角度がもっと小さくなり、そのため、色彩の分布は、一般に紫色が外側(cè)にあり、赤い色が內(nèi)側(cè)にあり、さらに環(huán)狀の中心部に近づくと、色彩が次第に薄くなり、光の環(huán)の中心になると、発光するミルク色のガラスの鏡のようなものになる。
どうして體と影が自分でも見えるのか。主な原因は次の通り。雲(yún)の群れの中の水滴と氷粒のついた點(diǎn)は多いが、人々のそれぞれ見る光の環(huán)は、それぞれ見るところを頂點(diǎn)とするその光の錐面の水滴と氷粒のついた點(diǎn)の作用の結(jié)果だけである。それぞれ小さな丸い鏡を照らすように、自ずとはっきり見えるのはそれぞれの影である。このような自然現(xiàn)象の現(xiàn)れる地理的位置、環(huán)境、時(shí)間、形態(tài)、色彩はいろいろであるため、これは環(huán)狀の「身を撮影する光」の成因を物語ることでしかない。このような環(huán)狀の色彩の光は、峨眉山の2番目の峰の金頂でよく見られ、19世紀(jì)の初めに、學(xué)界はそれを「峨嵋の寶光」に命名した。
「チャイナネット」2003年7月3日