上海テレビ塔の展望臺(tái)から俯瞰すると、市街地は低い赤色の屋根でぎっしり埋め盡くされている。こうした家々が上海で有名な石庫(kù)門(mén)の住居だ。
石庫(kù)門(mén)住居は歴史が上海に殘した一つの遺産、とも言えるだろう。上海は中國(guó)最大の工業(yè)都市で、最も早く対外開(kāi)放された商業(yè)港の一つだった。開(kāi)港されると、西洋人が続々押し寄せ、19世紀(jì)中葉には不平等條約によって租界が設(shè)けられた。最も古いのが英租界で、のちに米國(guó)やフランスなども設(shè)ける。上海は「一寸の土地、金の如し」のところで、租界はとくにそうだった。當(dāng)初、租界に住んでいたのはすべて外國(guó)人や華僑だったが、のちに戦亂のため、內(nèi)地の多くの財(cái)産家が租界に避難してきた。生計(jì)のため故郷を離れた農(nóng)民や漁民も続々上海に入り込み、租界にある工場(chǎng)の付近に粗末な小屋を建てたため、1870年代、租界當(dāng)局はこうした工場(chǎng)や住居を取り締まるよう命じ、同時(shí)に不動(dòng)産業(yè)者は荒れ果てていた野原に住宅を建て始めた。土地を無(wú)駄なく使うため、限られた面積により多くの人を収容し、また中國(guó)人に受け入れやすいように、住宅建設(shè)では西洋人から「長(zhǎng)屋」と呼ばれる建築方式を採(cǎi)用した。これが石庫(kù)門(mén)住宅だ。
一列また一列と連なる石庫(kù)門(mén)は巨大な小路からなっていて、多くの小路の入り口にはいずれも大きな門(mén)が設(shè)置されている。夕方になると門(mén)は閉められ、小路は一つの獨(dú)立した場(chǎng)所となる。小路は人々の生活に多くの空間を提供してくれる。夏の夜、小路はことのほか賑わう。ここで夕涼みをしたり、將棋を打ったり、トランプをしたり、子供たちは宿題をやったり、遊んだり……。炎暑で涼しくならないときは、折り畳みベッドや寢椅子を置いてここで夜を過(guò)ごす。
こうした小路のある住宅は、中國(guó)の民居のなかでも刷新的なものだ。ただ、石庫(kù)門(mén)自身の配置から言えば、中國(guó)伝統(tǒng)の民居である四合院の建築様式を保持しており、とくに早期の石庫(kù)門(mén)の住宅ではそれがより顕著だ。例えば、前に小さな入り口の間、真ん中に小さな庭、東西両側(cè)に副室があるが、こうした配置にすると敷地面積が大きくなるため、上海の租界地という「一寸の土地、金の如し」の狀況には合わない。そこで石庫(kù)門(mén)は次第に現(xiàn)在の様式になってきた。それでも基本的な配置は、舊時(shí)の數(shù)世代が同居する大家族の生活習(xí)慣に適している。ただ人口が増え続けるに伴い、一家族數(shù)人が獨(dú)立して住む狀況は少なくなってきた。三から五世帯、七、八世帯が住むところもあり、副室のある石庫(kù)門(mén)住宅では世帯數(shù)はさらに多い。
石庫(kù)門(mén)は上海という大社會(huì)の縮図だという人がいるが、まさにその通りだろう。長(zhǎng)い歳月のなか、市民はつらい日々をここで送り、革命家はここで秘密活動(dòng)(70年前、中國(guó)共産黨の第一回代表大會(huì)が石庫(kù)門(mén)住宅で開(kāi)かれた)を行い、文人や學(xué)者、蕓術(shù)家はここで自身の作品を育んできた。舊時(shí)、ここには工場(chǎng)や銀行、旅館、倉(cāng)庫(kù)、新聞社、學(xué)校、賭博場(chǎng)などないものはなかった?,F(xiàn)在、上海ではまだ三分の一の人が石庫(kù)門(mén)住宅に住みながら、新しい時(shí)代の物語(yǔ)を編み出している。上海の昨日と今日を知りたければ、上海の昨日と今日を理解したければ、石庫(kù)門(mén)住宅とそこに住む人々に會(huì)いに行くべきだ。
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