1980年7月14日、北京人民大會(huì)堂で美穂子さんは聶栄臻元帥の手をしっかりと握り締め、涙を流した。40年間生き別れになっていた「父親」に會(huì)えたのだ。聶栄臻元帥も彼女の手を摑んで離そうとはしなかった。
1940年8月21日、戦闘を指揮していた聶栄臻將軍は、指揮下にあった部隊(duì)が戦火の中から両親を失った日本人の女の子を救出したという報(bào)告を受け、司令部にその子たちを連れて來るように指示した。聶栄臻將軍が、二人のうち年かさの女の子に優(yōu)しく名前を?qū)い亭毪?、女の子は「興子」と答えた。この年かさの女の子が美穂子さんである(後に美穂子に改名)。彼女の脅えた様子を見て、聶栄臻將軍はナシを取り出し、「このナシはちゃんと洗ってあるから、食べなさい」と、親しみを込めて言った?!概d子」ちゃんはやさしく接してくれる聶栄臻將軍に安心して近づき、ナシを受け取って食べた。聶栄臻將軍は、「敵は無數(shù)の同胞を殘忍にも殺害したが、この二人の子供に罪はない。この子達(dá)も戦爭(zhēng)の被害者だ。私たちはこの子達(dá)を保護(hù)しなくてはならない」と言い、二人を部隊(duì)で保護(hù)することを決める。聶栄臻將軍は、部隊(duì)を指揮しながら、自らの手で「興子」ちゃんに食事を與えていた。女の子も聶栄臻將軍を慕うようになり?將軍のズボンの端を握り締め、どこに行くにも影のように付いて行くようになった。敵味方を超えた愛情を注いだ聶栄臻將軍は?女の子の安全を考え、後に二人を日本の兵営に送り屆けている。しかし、二人と別れた後も、聶栄臻將軍の脳裏からはあの小さな女の子のことが消え去ることはなかったという。
1980年、『人民日?qǐng)?bào)』は『日本の女の子、君はどこにいる?』という記事を掲載し、日本の『読売新聞』がこれを転載した?!?0年も経って、命の恩人が見つかるなんて、感激して泣いてしまいました」。美穂子さんは、當(dāng)時(shí)の寫真を持った『読売新聞』の記者が訪ねて來た日の驚きと感動(dòng)をこのように語った。この時(shí)、美穂子さんは都城市に家を構(gòu)え、夫と3人の娘たちと幸福に暮らしていた。
北京で再會(huì)した時(shí)、聶栄臻元帥は美穂子さんに松竹梅の『歳寒三友図』を贈(zèng)り、「寒い冬、百花が落ちても、松、竹、梅だけは生気を保っていられる。中日友好も松竹梅のようであってほしいと思う」と言った。美穂子さんは帰國(guó)すると、絵の大きさに合わせて自宅の玄関を改築し、この貴重な絵を飾った。
1986年、美穂子さんは夫とともに中國(guó)を再訪し、聶栄臻元帥を訪ねた?!父袱纤饯郡沥巳罩杏押檬聵I(yè)のために力を盡くすことを望み、私が今住んでいる都城市と、自分の故郷の江津市が友好都市になることを願(yuàn)っていました」。美穂子さんは、聶栄臻元帥の遺志を?qū)g現(xiàn)しようと心に決めた。その後、聶栄臻元帥の生誕100周年に當(dāng)る1999年、中國(guó)の江津市と日本の都城市は友好都市の関係を結(jié)んだ。両市の友好都市提攜を積極的に働きかけた美穂子さんは、「ようやく父の遺志を?qū)g現(xiàn)することができました」と、感慨深げに語った。
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