2004年冬、長春市平陽街46號にある3階建てのアパートに住む李淑賢さんは、付き添う人もないまま入院することになった。李さんは子供を生まなかったが、過去に日本人の女の子を育てている。しかし、10年以上も前に養(yǎng)女は日本に帰國してしまったので、夫に先立たれた李さんはアパートで獨り暮らしをしていた。
1945年8月15日、戦爭が終わり、中國で生活していた大勢の日本人が日本に引揚げ、その後には多くの日本人孤児が殘された。
ある日のこと、徐鳳山さん、李淑賢さん夫妻の家に親しい友人が長春駅前に捨てられていたという日本人の女の子を連れて來た?!缸庸─希硽rぐらいで、全身が黒ずんでいました。花模様のある紫色の和服を著て、泣く気力もないほど飢えているようでした。ぼんやりした目で見つめられ、私はたまらなくなって、その子を胸に抱きしめました」と、李淑賢さんはその日のことを回想する。
李さんは女の子を徐桂蘭と名付け、また「帯小」という幼名でも呼んでいた。李さんは終始自分の子供を生むことができなかった。それは、1943年に、日本兵に腹部を蹴られたからだった。當時、妊娠中期に入っていた彼女は、その原因で流産し、以後、二度と妊娠できない體になってしまった。
李さんは桂蘭ちゃんを自分の実の子として育て、彼女が高等學(xué)校を卒業(yè)した時にはつてを頼って工場に就職させ、彼女の結(jié)婚のためにもいろいろ苦労した。その後、養(yǎng)女は2人の子供を生み、李さんは孫娘が結(jié)婚するまで、その面倒を見た。
しかし、中日國交正常化後の1990年、養(yǎng)女の徐桂蘭さんは夫と子供を連れて日本に帰って行った。その數(shù)年後、養(yǎng)父の徐鳳山さんは娘のことを心配し続け、その名前を呼びながらこの世を去った。
李淑賢さんは娘に會うため、二度日本を訪れているが、娘はそれほど豊かとは言えず、一緒に日本で生活することはできなかった。夜中になると、李さんはよく目を覚まし、娘と孫娘の寫真を見ながら朝まで過ごす?!笇嫟皮?、夢に見るのは子供のことばかりです!」と、李さんは寂しさを訴えた。
1989年、殘留孤児と中國の養(yǎng)父母の話を聞いた日本人の笠貫尚章氏が8000萬円の寄付を申し出、中國の養(yǎng)父母のために3階建てのアパートが建設(shè)された。これが長春市平陽街46號にあるアパートである。ここには、かつて日本人殘留孤児を育てた養(yǎng)父母29世帯が住んでいたが、今ではその多くが故人になっている。
|