1939年春、かつて南京を訪(fǎng)れたことのある日本軍軍醫(yī)、山口誠(chéng)太郎氏が南京城を再訪(fǎng)した?;顨荬艘绀欷皮い款蠎榛黏菐妞然?、どこに目をやっても見(jiàn)えるのは崩れ落ちた城門(mén)と焼け跡、散らばる白骨ばかりである。目の前の慘狀に山口氏は驚き、不安を覚えたが、しばらくして、彼は日本に送り返される。帰國(guó)前、山口氏は南京の紫金山の麓に咲いていた花の種を採(cǎi)取していた。それは戦爭(zhēng)の廃墟で逞しく咲く紫色の野生の花であった。
1940年春、山口家の庭に紫色の小さな花が咲いた。山口氏は南京で見(jiàn)たことを人に話(huà)せなかったが、「これは中國(guó)大陸から持ち帰った花です。私はこれを紫金草と名付けました。もし、気に入ったなら、この花の種をあなたの家の庭に蒔いてください」という短いメッセージを添え、花の種を親戚や友人に配った。
それ以來(lái)20數(shù)年間、紫金草を日本でもっと咲かせたいと、山口氏は毎年この花の種を採(cǎi)取し、麻袋に詰めて汽車(chē)の窓から投げ落とした。
1966年4月のある日、日本の新聞の文蕓欄に一人の華僑青年の投稿文が掲載される。それは、中國(guó)には二月蘭と呼ばれる紫色の野生の花がある。以前はその花を日本で見(jiàn)たことはなかったが、今日、日本でもあの紫色の小さな花を見(jiàn)られるようになり、非常に懐かしく思っている、という內(nèi)容のものであった。
この時(shí)、山口氏は77歳の高齢で、しかも病床にあったが、夫人がその文章を読みあげると、新聞社宛に手紙を書(shū)くよう夫人に頼み、夜を徹して紫金草の由來(lái)を口述した。そして、この花を咲かせたいと思ってくれるなら、無(wú)料で種を提供する旨を付け加えた。
1985年、山口氏の子息は筑波で開(kāi)催された世界園蕓博覧會(huì)で、訪(fǎng)れた世界各地の參観者に100萬(wàn)粒の紫金草の種を配布し、紫金草の物語(yǔ)は日本から世界に伝えられていく。
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