新疆で広く名前を知られている日本人がいる。あるタクシー?ドライバーはその人物の新聞?dòng)浭陇且?jiàn)て、この人からは乗車料金を受け取るまいと深く心に刻んだ。彼の妹が新疆大學(xué)で學(xué)んでいた時(shí)、その人の名前を戴いた奨學(xué)金を受けていたからだ。その日本人とは、小島康譽(yù)氏である。
小島康譽(yù)氏はビジネスで成功した寶石商である。1982年、初めて新疆を観光した小島氏は、キジル千仏洞を見(jiàn)學(xué)する機(jī)會(huì)に恵まれた。敬虔な仏教徒であった小島氏は、荒廃が進(jìn)む貴重な仏教遺産に心を痛め、洞窟の保護(hù)と修復(fù)の費(fèi)用として10萬(wàn)元をその場(chǎng)で寄付した。小島氏は帰國(guó)後も惜しみなく資金を提供し、「中日友好キジル千仏洞修復(fù)保護(hù)會(huì)」を設(shè)立する。その後、小島氏と新疆との関係はますます緊密になり、毎年何度も日本と中國(guó)新疆との間を往復(fù)するようになった。小島氏は「新疆大學(xué)奨學(xué)金」、「中國(guó)文化財(cái)保護(hù)基金會(huì)?小島康譽(yù)日本留學(xué)奨學(xué)金」を次々と設(shè)立し、新疆ウイグル自治區(qū)人民政府の文化顧問(wèn)に就任する。
新疆のタクラマカン大砂漠の奧には神秘のベールに包まれた古代遺跡ニヤ遺跡がある?!弗衰洹工膝单螗攻辚氓日Z(yǔ)の音訳で、漢代には「精絶」の名で呼ばれていた?!簼h書?西域伝』には、「精絶國(guó)、王治精絶城。去長(zhǎng)安八千八百二十里(精絶國(guó)は王が精絶城を治めている。長(zhǎng)安から8820里離れている)」と記載されている。しかし、その後の史書には記載がなく、精絶國(guó)は歴史から完全に消えてしまい、ニヤ遺跡だけが砂漠の奧に靜かに橫たわっていた。そこは完全な無(wú)人地帯であり、動(dòng)植物も生存していない。探検家でさえ二の足を踏む広大な砂漠の中にあるため、遺跡の面積も遺跡の數(shù)も樓蘭を遙かに上回っているにもかかわらず、本格的な調(diào)査は行われていなかった。そのニヤ遺跡の調(diào)査のため、小島氏は資金の提供を決定した。1988年、小島氏を日本チームの隊(duì)長(zhǎng)とする「日中ニヤ遺跡學(xué)術(shù)調(diào)査隊(duì)」が組織され、1994年10月、ニヤ遺跡に対する最初の発掘調(diào)査が全面的に開(kāi)始された。
1995年10月11日に行われた7回目の調(diào)査で、「五星出東方利中國(guó)」の八文字が織り出された極めて珍しい彩色の錦織の肘當(dāng)てが出土した。この年、ニヤの発掘調(diào)査で得られた成果は、1995年に中國(guó)各地で行われた発掘調(diào)査の十大発見(jiàn)の一つに選ばれている。
小島康譽(yù)氏は1988年から1997年にかけて計(jì)1億9000萬(wàn)円を提供し、中日合同による空前の規(guī)模のニヤ遺跡考古學(xué)調(diào)査を9回実現(xiàn)させた。新疆という土地が、寶石商だった小島康譽(yù)氏を古代文明の守り手に変えたのだ。小島康譽(yù)の名とニヤのロマンはすでに切り離せないものになっている。
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