中日両國(guó)の長(zhǎng)い交流史には、真珠のように美しい民間のエピソードが無(wú)數(shù)にちりばめられている?,F(xiàn)代中國(guó)の大文學(xué)者である郭沫若氏は、青年時(shí)代に日本に留學(xué)し、安娜(佐藤とみ子)という日本人女性と結(jié)婚しており、中國(guó)の囲碁名人の呉清源氏は日本の女流棋士である中原和子さんと結(jié)婚し、日本に帰化した。また、中國(guó)屈指のバイオリニストの盛中國(guó)さんとピアニストの瀬田裕子とのロマンチックな結(jié)婚は、人々の憧れの的となっている。その中でも、中國(guó)の有名な數(shù)學(xué)者、蘇歩青教授とその夫人、松本米子さんの世紀(jì)の戀は、今も人々を感動(dòng)させてやまない。
1926年に日本東北帝國(guó)大學(xué)に留學(xué)した蘇歩青青年は、松本教授の娘である松本米子さんと知り合った。當(dāng)時(shí)、美貌の米子さんには求愛(ài)する者が多かったが、米子さんが選んだのは中國(guó)人留學(xué)生の蘇青年であった。1928年に二人は結(jié)婚するが、大學(xué)を卒業(yè)した蘇歩青氏は帰國(guó)を決意する。この時(shí)、新妻の米子さんは、「あなたの決定に賛成します。私はあなたを愛(ài)しているのですから、あなたが愛(ài)する中國(guó)を、私も愛(ài)します。私は私たち二人が愛(ài)する所へ戻ることに賛成ですし、もちろん、あなたがどこに行こうと、私はついて行きます」と言って、夫に同意した。
抗日戦爭(zhēng)が勃発した時(shí)、蘇歩青氏は浙江大學(xué)で教鞭を取っていた。岳父の松本教授の危篤を知らせる電報(bào)を受取った蘇氏は妻に帰國(guó)を勧めたが、米子さんは暫く悩んだ後、「日本には帰りません。何があっても永遠(yuǎn)にあなたについて行きます」と答えた。
浙江大學(xué)は戦火の中を西部の貴州省に移転することになった。その2000kmにわたる移動(dòng)の旅程で、夫妻は生まれたばかりの息子を亡くしている。貴州省の校舎に著いてから、蘇歩青氏はいつも継ぎの當(dāng)った服を著て教壇に立っていた。米子さんはみすぼらしい夫の姿を見(jiàn)るに忍びず、自分の玉の下げ飾りを質(zhì)に入れ、新しい服を買(mǎi)って夫に著せた。家族10人の暮らしを維持するため、自分のものはすべて節(jié)約し、體を壊しそうになるまで食事さえも我慢した。1986年5月、松本米子さんは81歳でこの世を去るが、蘇歩青教授は亡き妻の寫(xiě)真をいつも肌身離さず、「妻がいなければ私の人生はありえなかった」、「私は『心の中に生きている』という言葉の真の意味を?qū)g感している。庭を散歩しているときも、教壇で講義しているときも、會(huì)議に出席しているときも、妻がいつも一緒にいるような気がしている」と周?chē)欷苏Z(yǔ)っている。
2002年の9月23日、100歳の誕生日を迎えた蘇歩青教授は、次のような詩(shī)を作り亡き妻、米子さんを偲んだ。
人去瑤池竟渺然
空斎長(zhǎng)夜思綿々
一生難得相依侶
百歳原無(wú)永聚筵
(意訳)
妻は遙か彼方の天國(guó)に去り
彼女のいない部屋で過(guò)ごす夜は長(zhǎng)く、思いは綿々と続く
人の生涯で互いに頼りにできる伴侶は得がたいものだ
私は100歳まで生きている。永遠(yuǎn)にともに暮らすなど、
もとよりあり得ぬことなのに……
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